『日本醫史學雜誌』第64巻2号135頁 通巻第1570号 平成30年6月20日発行
 第119回日本医史学会発表掲載論文 平成30年6月2日・3日

「柔道整復術について」


清野充典
順天堂大学医学部医史学研究室


【はじめに】

柔道整復術は、701年に制定された『大宝律令』「按摩」の医術制度にまで遡る。「按摩」術は、「あん摩」・「指圧」・「柔道整復術」や整形外科医が行う医術を包括した医療技術である。江戸時代、柔道整復術を行う医者は、「整骨医」・「接骨師」・「骨つぎ師」と言われていたが、明治7年( 1874年) 8月18日に「医制」が施行された際、整骨医は医師国家試験合格後「整骨科」を標榜した単科の医師となり、「接骨師」・「骨つぎ師」は医者と認められなくなった。明治44年8月14日「按摩術営業取締規則」が制定され、大正9年4月21日に内務省より発令された内令九により、按摩術営業取締規則が一部改正された。「接骨師が行う接骨術は認め難いが柔道家が行う柔道整復術なら妥当」とされ、按摩術の一部として組み入れられた。昭和21年12月29日に「柔道整復術営業取締規則」が施行されたことにより、接骨師は、柔道整復師と名前を変え、療術行為・医業類似行為からの脱却を果たした。柔道整復術について述べる。


【本文】
整骨・正骨を行う役職は、文献上『養老律令』(718年)「律」・「令」の十巻「職員令」にある骨関節損傷を取り扱う専門職「按摩」に遡る。その内容は「医疾令」にあるが現存しない。『政事要略』(1008年)巻九五「医疾令」には、「按摩生は按摩傷折方及び判縛の法を学ぶ」とある。『令義解』(827年)には 按摩業務(判縛)について細かく記載されており、「判縛とは、骨折部位に対し鍼を用いて瘀血を取り除き、状態が重篤な時は患部を固定、あん摩・導引を施し、損傷部位の機能を回復させることである」とある。その後、遣唐使等が齎した医書は殆ど散佚しているが、鍼博士丹波康頼が著した『医心方』(982年)巻十八に、創傷治療と骨関節損傷治療が記載されている。日本で最初の正骨専門書は、大坂難波村の高志鳳翼が書いた『骨継療治重宝記』(1746年)である。儒学を学び中国の正骨書を熟読して正骨術を会得した人とされている。日本柔術救急法に由来する整骨術は、柔術家に特有な救急処置である。1619年長崎に来住した中国人陳元贇(げんいん)の中国拳法を、門人三浦義辰が日本的に体系化した攻撃法と救急法が基となっている。整骨術は、江戸時代中期に、柔術を背景とした3大流派が、長崎大坂江戸で発生した。代表的な書物は、吉原元棟著『杏蔭斎正骨要訣』である。上巻のみ完成したこの書物を、元棟の弟子二宮彦可が1808年に完成させた。書名は、『整骨範』である。進歩的な漢蘭折衷医である二宮彦可は、中国と日本の解剖学知識・薬物学・西洋の包帯法を参考として、漢蘭和の整骨術書を完成させた。『整骨範』序文では、幕府医学館の多紀元簡(漢方)と幕府西洋外科医官の桂川国瑞(蘭方)が、漢蘭折衷派の代表的整骨専門書として見做せると言っている。1746年以降、日本独自の整骨書が次々発刊され、固有の技術が生まれている。1805年に乳腺腫瘍摘出手術を成功させた華岡青洲の華岡流外科必修4大科目は、「整骨術」・「内外治法」・「金創治方」・「産科奥術」である。外傷に対して、徒手整復法を重視し、漢方薬や麻酔薬を用いる日本の伝統的整骨術は江戸時代に確立したと言える。明治13年1月1日に第1回医師国家試験が行われた。全国の「整骨科」標榜者数(内務省衛生局年報)は、明治13年326名、明治14年366名、明治15年387名、明治16年352名である。大正元年(1912年)萩原七朗が接骨師の復権運動を行い、柔道接骨術の講習会を開催した。接骨師が行う接骨術は認め難いが柔道家が行う柔道整復術なら妥当として、大正9年(1920年)4月21日に内務省が按摩術営業取締規則を一部改正した背景には、当時の社会情勢において柔道家の生活が不安定であったことに対する救済策の意味合いがあった。三浦勤之助(東大医学部教授)の助力により柔道有段者に接骨の業務を公認し、約3000人の接骨師(呼称は按摩師)が復権した。同時に、整形外科専門医の不足により社会的要求に応えられていなかったことが背景の要因としてある。整形外科が外科から分科したのは、大正15年(1926年)4月である。整形外科分野は、フランスのアンドレが提唱した整形学『整形学 小児期の身体変形を予防矯正する術 父母および小児を持つすべての人々の座右に』(1743年)が最初とされる。矯正術は日本の整体術と大きな違いがなかったため、医制後整形外科専門医の志願者が少なかったのではないかと推測される。現在の整形外科は、外科の一分野といえる。


【結語】
柔道整復術は、日本古来よりある「按摩術」から発展して、江戸時代に体系化された日本固有の医療である。「整骨医」と「接骨師」・「骨つぎ師」が連携を取って診療していた江戸期の医療体制は、柔道の救命法を基礎とした技術である徒手整復術の発展に大きく貢献した。包帯術や骨学の知識を重視して漢蘭を折衷した考えは、現代の医療体制に大きな意味を齎すと考える。明治2(1869)年に明治政府発行旅券第一号を持ってドイツに留学し、明治7(1874)年にアジア人として最初のベルリン大学医学部卒業生で順天堂大学第3代堂主だった佐藤進が、ビルロート著『外科総論』(1874)第5巻の『外科通論』を1876年に翻訳した際に用いた骨折・脱臼は、日本に定着した和製漢語である。柔道整復術は、日本固有の医療であり、骨折・脱臼・捻挫・打撲・挫傷等の外傷に対し、徒手にて整復することが可能な、非観血に行える外科手術である事を結びとしたい。


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